カンボジアを訪れるのなら、ぜひ訪れてほしい場所があります。
それは「トゥールスレン虐殺博物館(S21)」。
ここは悪名高きポル・ポト政権が自らの思想実行のために、反乱分子の排除を目的に行った恐怖の拷問施設です。
思想が人を狂わすとどうなるのか、背筋が凍り付く残虐さを身をもって体感できる施設になっています。
クメール・ルージュ支配下の政治犯収容所
原始共産主義を掲げ、理想の国家建設を目指したクメール・ルージュの支配下で誕生した政治犯収容所「S21(トゥールスレン)」。
ポル・ポト政権下では、3年間という短い期間の間にカンボジアの人口の3割(約200万人)が殺されました。
トゥールスレン政治犯収容所は、後年つけられた名前であり、政治犯収容所という名前はついていますが、中世の魔女狩り同様に次々と無実の人が殺されていった場所です。
なぜこのような惨劇が起こってしまったのか、ポル・ポト派の台頭と原始共産主義について説明します。
ポル・ポトと毛沢東
クメールルージュの政権トップに君臨したポル・ポトは元々は裕福な農家の出身で、いわゆるエリートでした。
しかし有名小・中学に進学するものの高校受験で失敗、技術系の学校に入学したあとフランスへ留学します。
フランスで共産主義に触れたポル・ポトは、帰国後さらに過激な原始共産主義へと傾倒していきます。
その後ポル・ポトはクメールルージュのトップとなり、毛沢東率いる中国から、武器や金銭の援助を受け国内で支配を強めます。
知識階級や貨幣制度を廃止し、農業を主とした平等な社会を築くというスローガンの元、次々と文化人、政治家、知識人を抹殺していったのです。
これは毛沢東の文化革命に触発された結果ともいわれています。
拷問の激化、虐殺
ポル・ポトは原始共産主義を掲げ、知識人や文化人もすべて農村に送り込み、ほんの少しの食料のみを与え強制労働させます。
その結果、次々と人々が衰弱死していくのですが、せっかく作られた米もすべて武器購入や政治工作の為に外国へ流れ、カンボジアは飢餓に陥っていきます。
しかし、国がうまく回らないのは原始共産主義ではなく、反乱分子がいるせいだと思い込んだポル・ポトによって、逮捕、拷問、虐殺が劇化。
そして、ポル・ポト政権が率いるクメールルージュによる、「カンボジア大虐殺」が起こりました。
ベトナム軍のプノンペン制圧
ポル・ポト政権の残忍な虐殺は、カンボジア周辺国では噂になっていたものの、完全な鎖国政策によって世界が知るところではありませんでした。
しかし、カンボジアからベトナムへ逃亡したカンボジア人がベトナムの力を借りて蜂起し、ベトナム軍とポル・ポト政権が衝突することになります。
クメールルージュによる大量虐殺により、ポル・ポト側の部隊は少年兵しかおらず、簡単にベトナム軍に制圧されてしまいます。
そして、ベトナム軍がプノンペンを制圧したことでポル・ポト政権は終焉を迎え、カンボジア大虐殺が世界の知るところになりました。
トゥールスレン虐殺博物館(S21)の展示物【ユネスコ世界の記憶に登録
【アクセス方法】
タクシー/トゥクトゥク
徒歩
トゥールスレン虐殺博物館は、プノンペンの街中にあるため宿泊場所によっては徒歩でも移動が可能です。
しかし、市内なら3ドル強で移動できるタクシーがおすすめ。
また、空港からならタクシーで8ドル前後です。
【トゥールスレン虐殺博物館入場料】
大人5ドル
10〜18歳3ドル
9歳以下無料
(音声ガイドは別途3ドル、日本語ガイド有)
部屋ごとに当時の様子を詳しく説明してくれるので、音声ガイドはつけたほうが良いでしょう。
発見時のままの拷問室
ベトナム軍が首都プノンペンを掌握し、S21に侵入してきたときの有様は、想像を絶するものだったようです。
ベッドにそのまま放置された遺体、腐って体が膨れ上がった遺体、体液や血液が床に滴り落ちている遺体などが散在し、生き残った人はわずか4人というほど厳しい状況だったようです。
また、ベトナム軍は建物内に漂う死臭で息ができなかったそうです。
トゥールスレン虐殺博物館では、拷問室が発見された当時のまま、写真と共に残されています。
収容者の写真
トゥールスレン虐殺博物館内の一室には、数多くの人物写真が整然と並べられています。
それらはこの収容所で殺された人たちの写真なのですが、写真を見ると、収容者に年齢や性別全く関係なく捕えられ、殺されていったことが分かります。
また、この収容所はあくまで取り調べ施設であり、処刑場は別の場所にあります。
したがって、ここで収容者をあやまって殺してしまった場合は、その当事者も罪を問われ処刑されていたようです。
そしてこの収容施設で働き、拷問していた職員はすべて14歳前後の子どもだったということです。
生還者による拷問の様子の絵画
部屋の壁には、かろうじて生き残った施設の収容者による絵画が飾られています。
そこには、生還者が見た身の毛もよだつ拷問の光景や、豚のように人が足と手を縛られ、所狭しと狭い部屋に並べられた様子が描かれています。
骸骨で作ったカンボジア地図(2004に撤去)
あまりにも残酷だということで、2004年に撤去された有名なカンボジアの地図が、以前はトゥールスレン虐殺博物館に飾られていました。
それは、子どもの頭蓋骨でできたカンボジア地図。
ポル・ポト政権下で殺された、直径10cmほどの子どもの頭蓋骨でできており、川は赤い血の色で表されています。
小さな頭蓋骨を見ると、赤ん坊が反乱分子になるわけもなく、どのような理由で数多くの小さな子供たちが殺されたのだろうと、沈痛な気持ちになります。
チュンエクのキリングフィールドも併せて見学
トゥールスレン虐殺博物館を訪れたら、そこからタクシーで9ドルほどのところにある「キリングフィールド」も併せて見学しましょう。
キリングフィールドは、処刑場です。
トゥールスレンからも多くの人がキリングフィールドに連れてこられ殺害されました。
埋まったままの遺骨・遺体
キリングフィールドには、毎日トラックで大勢の人が運び込まれ、殺害されていったため、無造作に遺体が埋められています。
今でもそのままに骨が埋まっているので、ところどころ土から骨が見えていたり、洋服のきれっぱしが土からはみ出したりしているのを見ることができます。
ポル・ポト政権下で虐殺された正確な人数は今でも把握しきれていないのですから(100万~300万人)、膨大な数の遺体が埋まっているのでしょう。
カンボジアの中では、掘り起こさずに死者はそっと眠らせておこうという意見もあり、そのままになっている遺骨も多いそうです。
年代別の頭蓋骨
キリングフィールドには慰霊塔があり、そこにはキリングフィールドで殺された9000もの頭蓋骨が性別・年代別に整然と並べられています。
慰霊塔建設時には、ポル・ポト派によって僧侶が皆殺しにされていたため、慰霊できる僧侶がおらず、海外から呼ばなくてはいけなかったそうです。
クメールルージュがどれほど徹底して、知識階級・文化人を排除していったのかが分かりますね。
処刑の行われた設備や木
そしてキリングフィールドには処刑に使われた道具や、木がそのまま残っています。
財政が圧迫されている政権で、処刑に使われた道具はナタや斧といった原始的な道具でした。
そしてキリングフィールドには有名な「キリングツリー」という木があります。
クメールルージュは母親を強姦し、その母親の目の前で子どもの足をつかみ、子どもの頭をこの幹にたたきつけて殺害したといいます。
刑を執行するのに幼い少年兵たちも参加させられていました。
今は美しい公園のようなこのキリングフィールドで、ほんの40年前に行われた惨劇を考えると、誰もが言葉をなくしてしまうでしょう。
まとめ
カンボジアでは、トゥールスレン虐殺博物館とキリングフィールドはぜひ訪れてもらいたい場所です。
見終わったとき気分は落ち込んでしまいますが、平和の意味と行き過ぎた思想の恐怖を感じる大切な経験になることには、間違いありません。